弘法大師
「空海」さまって
どんな人?

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弘法大師さまは、平安時代初期に活躍した高僧です。

遣唐使として中国に渡り密教を持ち帰り真言宗を開きました。新たな日本文化を形成した偉人であり、四国の八十八か所のお遍路の開祖となるなど、日本中にさまざまな伝説を残しています。

四国に生まれ、18歳で大学に入学

空海

宝亀5年(774)、讃岐(さぬき)の国(現在の四国香川県)で誕生され、幼いころには“真魚(まお)”と呼ばれました。 15歳で都に出て勉強に励み18歳で最高学府の「大学」に入学し勉強に専念しました。

しかし、大学で勉強することは世の中のためにならないと悟り、大学を辞め修行を始めました。

厳しい自然の中で修業をするため四国の山や洞窟に訪れました。のちの「お遍路」の原型となります。その後、大自然の中で修行をはじめることになりますが、そのきっかけは、一人の沙門(しゃもん:仏教の修行僧)から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を伝授されたことでした。


虚空蔵求聞持法という修行を行い「空海」と名乗る

「虚空蔵求聞持法」は、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えると、あらゆる経典を記憶できる力が得られるとされる修行です。虚空蔵菩薩が知恵や記憶を司る仏であり、村松虚空蔵尊が十三詣りの聖地と呼ばれる所以でもあります。

この行は百日間ないし五十日間で終わらなければならず、行者の厳しい負担は想像を絶するものです。

その修行のおり、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されています。この瞬間、空海さまは悟りを開いたといわれ、修行で籠っていた洞窟からの視界の中から見えるのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝えられています。

空海

真言密教を確立し日本中に広めました。

延暦23年(804)朝廷から命を受け、遣唐使として唐(当時の中国)に渡りました。
空海さまが乗船したのは遣唐大使の乗る第1船。4隻の船団のうち、第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであり、とても大変な航海だったことがうかがえます。

空海さまの乗った船は、途中で大きく航路を逸れ、福州長渓県赤岸鎮に漂着しました。海賊の嫌疑をかけられ、このとき遣唐大使に代わり、空海さまが福州の長官へ嘆願書を代筆し、その書を見た長官がただものではないと考え、長安入りを許されたという逸話が残っています。

本来の留学期間は20年間を予定されていましたが、それをたった3年間で終えたことからもその凄まじさが伺えます。経本や新訳経典など多数のものを与えられましたが、そのほか、土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、収集したとされています。


遣唐使として長安に渡り、さまざまなものを持ち帰る

大同元年(806年)10月、空海さまは無事、博多津に帰着。呉服町に東長寺を開基し、大宰府に滞在しました。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していました。

日本に帰った空海さまは日本中にさまざまな伝説を残すこととなり、ここ茨城県東海村を訪れ、虚空蔵菩薩をお刻みになり、村松虚空蔵尊を建てられたと伝えられています。


村松虚空蔵尊とは
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村松虚空蔵尊の縁起
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