村松虚空蔵尊の縁起

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空海さまが彫った虚空蔵菩薩と村松山神宮寺

村松虚空蔵尊

村松虚空蔵尊は平安時代初期の大同2年(807)、空海、のちの弘法大師さまが、仏教により国を守り安泰にする「鎮護国家(ちんごこっか)」と、万民が一人のため、一人が万民のためを思えば平和な世界が訪れる「万民豊楽(ばんみんぶらく)」を掲げ、等身座像の虚空蔵菩薩を一刻みするごとに三度礼拝する一刀三拝の礼をつくしてお刻みになりました。

そして平城天皇から「村松山神宮寺」の勅額(直筆の寺額、今でいう看板)を賜わり、創建されました。

平安末期より鎌倉、南北朝、室町、安土桃山時代まで500年ものあいだ、佐竹氏が隆盛を極めていました。その保護のもとで、塔中寺院・円蔵寺・松林寺・歓喜寺・東光寺・竜蔵寺・竜光院などたくさんの僧坊(そうぼう:僧侶が住む建物)を建設し、多くの学徒の養成に貢献しました。


戦国の火に焼けた伽藍(がらん)

応仁の乱(1467)に始まる戦国時代の文明17年(1485)に、佐竹氏と岩城氏が村松の地で交戦し、当山も兵火にかかってお寺、建物、勅額が消失しました。しかし、本尊(虚空蔵菩薩)は佐竹氏の一族である真崎浦天神山城主、真崎三郎の奉納した仏像を安置する御厨子と共に火をまぬがれ、今に伝わっています。
焼失から2年後の長亨元年(1487)、「頭白上人(ずはくしょうにん)」により再建され、村松山神宮寺を改め、村松山日高寺と称して、福徳智能、除災招福、一代開運を授ける祈願寺の根本霊場として伽藍(建物)が整備されました。


徳川家の庇護を受けた村松山

その後、徳川が天下を治めたころ、家康公より朱印50石を寄進されました。また天和3年(1683)龍蔵院、龍光院の2院を虚空蔵尊の管理者とし、修験道(山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教)を取り入れました。光圀公は五所明神と虚空蔵尊を分離させて伽藍を修理し、貞享3年(1686)御前仏である虚空蔵尊を修飾して自ら蓮華台上に次の文を刻されました。

常州那珂郡村松浦、隸予封内、 浦有虚空蔵菩薩像 、 日域三虚空蔵之一、而霊応日新、 然歳月之久 、像躯朽弊矣、 方今命工修飾、以安置之云 、
貞亨三歳次 丙寅臘月穀旦、 参議従三位兼右近衛権中将水戸侯源光圀識


さらに、光圀公は巨額の資金を投じて伽藍を一新しましたが、佐竹氏の僧侶を嫌い、虚空蔵堂を修験者の管理下に置かせます。その後、当山は乱世の兵火に何度もあい、盛衰を越えながら、明治の御代まで法燈(師から弟子へと教えを伝えていくこと)は連綿と維持されてきました。


関東第一の霊仏と呼ばれ評価された村松山

なお、当山寺伝の縁起等によれば、古来より弘法大師さまから伝え受継いだ秘法、金胎両部、真言密教をもって仏教を広め、坂東仏教の源をなすものとあり、古くから宗派を問わず参詣のできた、仏教徒宿願の霊場であったと歴代先師の口伝にあります。 
藤田東湖(幕末の水戸藩士、水戸学藤田派の学者)いわく「本尊虚空蔵菩薩は関東第一の霊仏にして、貴賎の巡礼絶えることなし、此れに由りて之を観る時は、其の霊験のなす所悉知するに足れるなり」ともあります。


「星の宮」から「虚空蔵」へと名前が変わった明治

明治3年(1870)廃仏棄釈の令が行われて当山も「星の宮」と改称されましたが、明治4年、茨城県令より突然「星の宮儀、従前通り虚空蔵と称すべし」との命令があり、真言宗日高寺に改められました。


災禍をまぬがれた本尊

明治33年(1900)3月、門前の民家から失火、当山の伽藍はすべて茅葺きのため、本堂(330m2)、仁王門、三重塔、客殿等ことごとく焼失しましたが、幸いにも本尊と鍾馗霊神は災をまぬがれました。


大正から諸堂が次々と再建される

再建

大正6年本堂を再建し、同年書院、大正13年太鼓橋、同年鍾馗霊神堂を再建し、昭和元年仁王尊献納会より献納をうけ、昭和9年4月講社より客殿寄附、同年奥之院多宝塔一基を寄進され、昭和15年奥之院参道石段及び土止垣建設、昭和45年仁王門再建、昭和47年石畳参道完成、昭和55年大鐘楼堂が再建、昭和58年信徒会館が完成、平成10年に三重之塔が再建され、真に天下の名刺に恥じない伽藍が再整備されました。
平成15年は専誉僧正400年、頼瑜僧正700年の御遠忌の年にあたり、その記念事業として、また新しい世紀への第一歩として本坊を建設しました。


虚空蔵堂年表

時代
西暦 和暦 史実
平安時代
807 大同2年 弘法大師空海さまが鎮護国家と萬民豊楽、平和祈願のため一刀三礼の礼をつくし、等身座像の虚空蔵菩薩をお刻みになり、平城天皇から「村松山神宮寺」の勅額を賜り虚空蔵堂が創建される。
鎌倉時代
南北朝時代
※この後、平安末期より安土桃山時代までの約五〇〇年の間佐竹氏が隆盛を極め、当山も又塔中寺院、円蔵寺、松林寺、歓喜寺、東光寺、竜蔵寺、竜光院等幾多の塔中を連ね多数の僧侶の養成に貢献する。
    ※この後、平安末期より安土桃山時代までの約五〇〇年の間佐竹氏が隆盛を極め、当山も又塔中寺院、円蔵寺、松林寺、歓喜寺、東光寺、竜蔵寺、竜光院等幾多の塔中を連ね多数の僧侶の養成に貢献する。
1352 文和元年 賢海和尚が虚空蔵堂に参籠した後、如意輪寺を創建する。
1467 応仁2年 連歌師宗祇が当山を訪れ十首の歌を詠む。
室町時代
1485 文明17年 佐竹義治が岩城常隆と村松にて交戦(佐竹の乱)。戦火により伽藍一切が勅額と共に焼失する。但し、本尊と御厨子(佐竹氏一族真崎浦天神山城主真崎三郎奉納)は戦火から免れる。
戦国時代
1487 長享元年 頭白上人が虚空蔵堂を再建する。「村松山神宮寺」を改め「村松山日高寺」と称し、福徳智能、除災招福、一代開運を授ける祈願寺の根本道場として伽藍が整備される。
1570 永禄3年 醍醐寺無量寿院の堯雅が照沼の如意輪寺にて付法。常陸北部に真言宗の教線が拡大する。
江戸時代
1610 慶長15年 徳川家康が当山に朱印状を授与し、50石を寄進する。
1623 元和9年 村松の百姓らが砂の被害により虚空蔵堂領内への移住を願い出る。
1683 天和3年 水戸光圀が大田村の修験である龍蔵院を正別当、龍光院を脇別当とし、虚空蔵尊の管理を命じる。
1686 貞享3年 水戸光圀が虚空蔵菩薩を修復する。
1689 元禄2年 奥州南部藩伊勢屋与兵衛の船が村松沖で時化に遭遇する。虚空蔵堂に礼参し、乗組員全員の無事を謝する。
明治時代
1869 明治2年 明治政府により廃仏棄釈が行われ「星の宮」と改称される。
1873 明治6年 水戸藩庁の命により「星の宮」から虚空蔵堂に戻される。
1900 明治33年 門前民家からの火災により、本堂・仁王門・三重塔・客殿等ことごとく焼失。しかし幸いにも本尊・御前立・鍾馗霊尊画像・霊験木などは火災から免れる。
大正時代
1917 大正6年 本堂落慶
書院再建
1924 大正13年 太鼓橋再建
鍾馗霊神堂再建
昭和時代
1926 昭和元年 仁王尊献納会より献納を受ける。
1934 昭和9年 講社より客殿寄附、奥之院多宝塔一基を寄進される。
1940 昭和15年 奥之院参道石段、土止垣建設
1970 昭和45年 仁王門再建
1972 昭和47年 石畳参道完成
1980 昭和55年 大鐘楼堂再建
1983 昭和58年 信徒会館完成
平成時代
1998 平成10年 三重之塔再建
2007 平成19年 創建1200年記念
2008 平成20年 手水舎落慶


村松虚空蔵尊とは
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